神さまのお話  (7)

父親にゆるしをねがう放蕩息子のように人間は神さまの前で謙遜になることが大切  また、私ども人間はみな、多少の罪を犯しております。罪は神さまにそむくことです。たとえば、腹をたてるとか、あるいはうそをつくこと、人を憎んだり、うらんだりして、人の欠点についておしゃべりをして、ずるいことをして、不潔な話をして、みだらな思いをたのしんだりして。そういうようなことは、神さまにそむくことです。罪になることです。もちろん、神さまに罪のゆるしを願えば、神さまは、あわれみふかい方ですから、私どもの親の親の一番の親ですから、よろこんでおゆるし下さいます。
 しかし、ある人はなかなか神さまに頭を下げません。「私は、べつに罪をおかしたおぼえはない」と、こたえる人もあります。そういう人は、正直な人間ではないでしょう。罪を犯していない人は、小さな子供、五才以下の子供には罪はありません。けれども、五才以上のふつうの人間でしたら、多かれ、少なかれ皆、罪を犯したことがあります。  前に犯した罪は、もう忘れてしまったかもしれませんが、神さまは、その罪も、私ども人間のよい行いも、悪い行いも、一々記憶しておられます。そして、早かれ、おそかれ死んで、私どもは神さまの前でさばかれることになっています。その時がこないうちに、私どもはどうしても心から痛悔して神さまから罪のゆるしを願わなければ、なかなかその罪のゆるしを与えられません。罪を痛悔することは何よりも大切です。よほど謙遜な人でなければ、なかなか神さまに罪のゆるしをねがわないでしょう。

 また、罪を痛悔するだけでは、それはたりません。だれかが、その罪のつぐないも果たす必要があります。ここで私どもは困る場合があります。罪を犯しまして、十分に、その罪のつぐのいを果たしえないばあいもあります。ちょうど、だれかが、百万円のお金をぬすんだとします。後に、ただ「すみませんでした」というだけでは、それは足りません。おわびするのもありがたいことです。けれども、だれかがその百万円の盗んだお金を返さなければなりません。もし、自分で、その盗んだお金を返すことができなかったら、自分の友人、あるいは自分の親戚にたのんで、その盗んだお金を返していただいたら、それで間にあうでしょう。それと同じように、私どもは何回も神さまにそむいたことがありまして、自分の力ではふさわしくその罪をつぐのうことができませんから、どうしても、他の方に、その罪のつぐのいを果たしてもらわなければなりません。

 神さまは、最もえらいお方です。それで、もし神さまと同じ位の方でなければ、その罪のつぐのいを果たすことができません。幸いに、イエズス・キリストさまは神さまでありながら人となって生まれ、十字架のうえでお苦しみになった時、私ども人間の罪をことごとく、つぐのってくださいました。イエズスさまが十字架の上でお苦しみになった時、全世界の人が犯した罪のつぐのいを果たしてくださいました。
 ですから、もし、私どもが、イエズスさまを自分の救い主とみとめて、イエズス・キリストさまに感謝して、イエズス・キリストさまのお定めになった洗礼という、きよめの儀式、きよめの秘跡をうけましたら、その時に自分の罪はもちろん、自分の罪のためにのこるつぐのいまでも、きれいにゆるされます。そして、自分の罪も、罪のつぐのいも、ことごとくゆるされましたら、その日から、自分の天国の席がきまります。天国の席がきまりましたら本当に気楽になります。

 私は、沢山な人たちにキリストの洗礼をさずけたことがあります。その中には、洗礼をうけたあと、泣きだした人もおります。うれしさのあまり涙を流す人もおります。やはり洗礼をうけた時、私どもの完全な幸福、終わりなき幸福がきまりますから、たいへんうれしくなるのは、当然のことと、私は思います。
 私は、四十五才ぐらいの男の方に洗礼をさずけたことがございます。その同じ日に、そのお方の妻と、数人の子供にも洗礼をさずけました。ところが、洗礼を受けられてから一時間ぐらいたちましたら、その家族のお父さんは、非常に泣いておられました。私はその方のそばにいって、「おからだの調子は悪いですか?」とききましたら、そのお方は「そうではありません、私は元気ですけれども、洗礼を受けてからは、私はうれしくて涙を流しました。ほんとうにうれしい。今夜、私の天国の席と、私の家族の天国の席までもきまりました。ずっとイエズスさまに最後まで従えば、私はまちがいなく、その美しいみ国に参られますから、うれしくてたまりません」とおっしゃいました。私はいつまでも、そのお方を忘れることができません。

 

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