神さまのお話  (10)

イエズス様のやさしさをあらわす「あわれみのご絵」  神さまはやさしいお方です。ある人は、神さまはきびしいおかたで、神さまに従いましたらおもしろくない生活になると、思っている人がすくなくありません。けれども、そうではありません。神さまほどやさしいおかたはございません。神さまは、ほんとうに寛大なおかたです。山ほどたくさんな罪をおかした人でも、もし心からその罪のゆるしをねがえば、神さまはよろこんでおゆるしくださいます。
 しかし、神さまは、あわれみふかいかたでありながら、最も正義なるおかたです。罪をゆるすだけではたりません。だれかがその罪のつぐのいをはたす必要がありますから、そのために、神さまは、じぶんのおんひとり子をこの世におつかわしになって、神のおん子、イエズスさまがこの世にお降りになって、自発的に、すすんで、あのざんこくな十字架の刑をうけられたのです。
 イエズスさまは、じぶんの生命をふせぐ力がありました。全能なるかたでしたから。たやすく十字架の上からおりることもできました。にげることもできました。しかし、イエズス・キリストは私ども人間を救うがため、この世におくだりになりました。私どもの犯した罪のつぐのいをはたすのが、イエズス・キリストさまの第一の目的でした。ですから、イエズス・キリストさまに感謝しなければなりません。
 イエズス・キリストさまは、じぶんの生命までも私どものためにおささげになりました。もし、この地上にただ一人だけの人間がおりましたなら、イエズス・キリストはただ一人だけの人の霊魂を救うため、あの残酷な苦しみを、あの十字架の死刑をうけられたはずです。それほどまでに、私ども人間を愛したもうおかたですから、私どももすこしつらいことがありましても、不平を言うてはいけません。神さまはほんとうにありがたいおかたです。

 イエズスさまのみ教えを信ずる人はいつもおちついていて、もう死をおそれなくなります。私ども人間はみな、早かれおそかれ死ななければなりません。死はほんとうにいやですけれども、キリスト信者にとっては死はそんなに悲しいことではありません。むしろ、死は天国の門です。おわりなき幸福のはじまりです。
 イエズスさまのおことばによれば、天国は私ども人間の想像以上のけっこうなところです。たびたびそのことについて考える人は、年をとるにしたがってますます楽しくなります。死をおそれる必要はぜんぜんありません。だれかれの差別なく一度は死にます。死の準備をするのが何より大切です。
 私どもの生命は短うございます。ある人は百才まで生きながらえますけれど、その百年間を死んでからの永遠の世界とくらべましたら、その百年間は一分間よりも短くみえます。この世の生命の短さと、来世の長さについてよく黙想する人は、必ずイエズス・キリストさまに従うと思います。

 しかし、ある人は不幸にしてイエズスさまのありがたいみ教えを耳にしましても、なかなか信じられません。それはなぜでしょうか。信仰は神さまのお恵みです。謙遜に神さまにおすがりして、神さまに祈らなければなりません。神さまにむかって、「神さまよ、どうか私のかずかずの罪をおゆるしください。私をみちびいてください。私はみ旨にしたがいますけれども、どの道があなたのお定めになった道か、私はハッキリわかりませんからどうぞ教えてください」と、謙遜に神さまに祈りさえすれば、神様はまちがいなく、そういう人の知恵をてらして、ふむべき道をお示しくださいます。そして、その人はほんとうの教えがわかってきて、キリストの洗礼をうけて、じぶんの犯した罪のゆるしをうけたら、なんともいえない心のよろこびを感じられます。
 キリスト信者にとって一番たのしい時は、臨終の時でしょう。神さまのうつくしいみ国にはいられる日は、まことに楽しい日です。あの有名なアシジの聖フランシスコは、臨終の時に、大きな声で歌をおうたいになりました。村の人びとは、フランシスコの声をきいて「フランシスコはそんなに病気がむつかしくないでしょう、あんなに歌をうたったりするぐらいの人だったら、決して死にかかっている人ではありますまい」と言いましたが、三日目にフランシスコは、安らかにお亡くなりになりました。なぜあんなにお喜びになりましたでしょうか。ああ、フランシスコはほんとうの信仰者でした。じぶんは死んで、まもなくあの形容しきれないほどの美しい天国にはいることができるとおもって、たのしくって、たのしくって歌をうたいました。
 すべての人も、そういう信仰がございましたら、死はほんとうに楽しい時になります。すべての人が、この美しい信仰のお恵みを与えられるよう、私は毎日、神さまに一心にお祈りをいたしております。

《 おわり 》

 

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